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わたくしんちダイエット編

<これは昔書いたエッセイの再掲です>

 人が何かを決心には、必ず何か大きなきっかけがある。
 勉強就職結婚、引越……。

 つい、さっき、私はそれを経験した。本当にこれを書くついさっき、私は買い物に出るため、一人でマンションのエレベーターに乗ったのである。
 すると、何ヶ月ぶりかで顔を会わせる、同じマンションのおばちゃんといっしょになった。
 開口一番、その方はいう。

「あら、


太りましたあ?」








 人は、あまりのショックを受けると、顔が青ざめながらも、急にバカ笑いをしたりするものだ。



「オッホホホ!

わかりましたあ?

この夏、太っちゃってえ」




 明るく笑ってやりすごそうとする。
心の中では、勿論こう思っていた。




 早く話題変えてくれよ。




 だが、そのおばちゃんは、許してくれなかった。
「あらあ、ちがう方と間違えたのかしら」
 なるほど、人違いか。このおばちゃんは、引っ越してきてまだ日が浅い。




 そうか、誰かと間違えたんだ。




 ほっと安堵の気持ちが、私を楽にする。
ところが、ほっぺたに指を当てて考えていたおばちゃんは、こういい放った。




「そうだわ。あちらの方と間違えたのよ。いやだあ、あちらの方は、もっと……







 やせてる人だった!」
 














  がーん! 

 




 いったい、どういうフォローであろう。
 これでは、まるで、




 あなたは、太ってる!




 と、念を押しているようなものではないか。

 一階のエレベーターホールで、挨拶をして別れても、放心状態の私は、しばらく呆然と立ちつくしていた。
 心の中で、自分に言い聞かせる。

 だめだ、恨んじゃ。罪を憎んで、人を憎まずっていうじゃないか。ああ、でも、憎む、にく、




 肉、肉……ぜい肉!



 
 頭の中が、ぜい肉のことでもういっぱいになってしまっている。
 買い物に出る気もすっかりなくなり、回れ右をして、エレベーターで家に戻る。
 洗面所の鏡に、上半身を写してみた。
 やっぱり、やっぱり、私、




 太っている!




 
 なぜ、太ったのか、理由は簡単だ。
 この夏ずっと、創作に専念したからである。
 一日ワープロの前に座りっぱなしでは、やせるわけがない。
 週に一回ヒップホップダンスに通い、エアロビクスも、一、二回やっていたのに、創作を優先させたい一心でさぼっていた。
 運動して疲れすぎるのが、怖かったのだ。




 太っても、いい作品が書けるのと、

 やせて、いい作品が書けないのと

 どっちがいいか。




 そう聞かれれば、迷わず私はこう答える女なのである。




 どんなおデブちゃんになろうと、作品を発表したい!




 だが、その生活のツケが、身体に出てしまったのである。
 しかし、そこで私は思う。
 同じ作家でも、どうしてプロポーションのいい方もいるのだろう。
 





 しくしく……。



  
 もちろん、私を知っている人なら、
「そんなの太ってるうちに入らないわよ」
 と、なぐさめてくれることであろう。
 ウエスト以外は、まだ7号サイズ、といったら、



「ふざけるんじゃないわ、喧嘩売ってるの!」



 と、怒り出す掲示板の常連さんもいるかもしれない。これ以上書くと、




 血の雨が降る




 ので、やめますが。

 だが、明かに、この夏私は2キロ太ったのだ。

 インターネットをやっていると、「うらぴょん」という名前だけ知っていて、実際は会ったことのない方ばかりだ。
 初めて「うらぴょんです」と自己紹介すると、
「え? あなたが? 本当に?」
 と、驚愕されるのが一番困る。
 なにしろ、私はどこかの掲示板で自分のことを



 絶世の美女



とまで言い切った、



 世界一の大ばかやろう!



 
 だからだ。
 来年の、児童文学関係のつどいまでに、




 整形しようか。



 
 と思ったことさえある。勿論これはすぐに却下された。理由は、



 あちこち直したら


 きっと、







莫大な費用がかかるから!



 だったら、ネットでウソをつかなきゃいいのに。
 話を面白くするために、つかなくていいウソまでつくのが、



 物書きの性!




 整形は無理でも、せめてダイエットに励もう。そう決心した今日この頃というわけである。
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わたくしんち書斎編

<これは2002年に書いたエッセイの再掲です>

  主婦で物書きをする方にとって、原稿をどこで書くか、は切実な問題だと思う。
 よく「台所作家」などといって、ダイニングテーブルの上で原稿用紙を広げる純文学作家の先生もいらっしゃるが、私は到底真似できない。
 広げたとたん、お菓子やジュースを手にしている息子たちに、原稿用紙がベタベタにされることだろう。おまけに、原稿はほとんどパソコンで書く。まさかダイニングテーブルの上に、パソコンを設置するわけにもいくまい。

 結婚するとき、どうしても自分が創作をするスペースが欲しくて、嫁入り道具として文机を買った。狭いマンションの部屋には、これしか置けなかった。その文机の上に、当時はやっていた小さなワープロを置いて童話を書く。これで、いくつか短編を書くことができた。
 それから千葉県柏市のアパート、一戸建てと移り住む。
「オホホ……。夢の一戸建て。これでやっと書斎が持てる」
 わけがなかった。
 小さな一戸建てでは、書斎など持てるわけもない。文机は処分し、狭いリビングの隅に、小さな事務机を買って置く。そして、その上には、念願のパソコン。
 だが、子育てが佳境になると、パソコンの前に座れる時間が、一日二十分くらいしかない。すぐに子供がまとわりついてきたり、泣き出したりする。今より少し前のパソコンは、立ち上げだけでも、かなり時間がかかったので、ウイーンと唸っている間に、「アウト」となることも多かった。
 おまけに、木造の一戸建ては、冬めちゃくちゃ寒く、夏は暑い。自分だけのために早朝ストーブをたいたり、夜遅くクーラーを入れるのももったいない。
 どうにも落ち着かなかった。

 そして、今回また東京のマンションに転居する。
「オホホ。今度こそ落ち着いた創作スペースを……」
 七畳のフローリングで、北向きの部屋。(書斎に南向きはぜったいダメだ。本が焼けるし、暑いと頭がぼうっとする)
 そして、北側の窓の前に、どーんと私の机。
 だが、となりには、小学4年生の長男の勉強机……。
 うちでは、この部屋を「勉強部屋」と呼んでいる。なぜ、机を一つの部屋にまとめたかというと、色々便利だからだ。
 まず、となりに座って勉強させれば、始終チェックができる。自分の部屋、など与えて引きこもられたら、何をしているかわからない。少年の非行が、日本の子供が、ベッドも机もテレビもある個室を与えられているせいだ、という意見も一時強かったではないか。
 いっしょの部屋に机さえあれば、
「ほら、マル付けは終わったの?」
 などと、すぐに長男を指導することができる。ちなみに、1年生の次男の机はまだない。3年生くらいまでは、自分の机を与えても、何の役にも立たないことが、長男でよくわかったからだ。低学年では、ダイニングテーブルのとなりにすわって勉強をみないと、ちっともはかどらないのである。

 いっしょの部屋に机を置くもう一つの利点は、エアコンを共有できることだ。夏休み、冬休み、ちがう部屋でそれぞれエアコンを使っていたら、無駄でしかたがない。
 こうして、私の念願の書斎、ならぬ「勉強部屋」がついに完成したのである。
 さて、今の私の仕事机は、どういった状況かご説明しよう。ふつうのデスクの上に、手元を明るくできるように、よく動くバイオライト、というスタンドをとりつけてある。そして机の幅が狭いため、向こう側には、一番下の段を机の高さにそろえたスチールの棚。その一番下の段(つまり机と同じ高さ)にパソコンとプリンター。背伸びして届く上の段には、紙類、封筒、むかしの原稿の束、が何段にも積み上げられている。机の横には、文房具や葉書、封筒、メモ用紙の詰まったワゴン。その上に電話兼FAX。そして、壁いっぱいに本棚。私の机は、北側の窓を向いているが、長男の机は、東側の壁を向いている。
 マンションの一番の利点は、冬暖かいことだと思う。暖房をつけずとも、朝四時に起きて二十度近い温度がある。夏は、狭い部屋にクーラーをかければ、すぐ冷える。
 おかげで、創作は、うまくはかどる、はずであった。

 だが、近頃、また新たな問題が浮上している。
 となりで勉強しているはずの長男が、私のワープロ画面をのぞきこんで、こういう。
「ちぇ。ワンパターンだね。堅苦しい話ばっかり。もっと面白い話書けねえの? はやみねかおる、みたいにワクワクするやつ」
 これでかなりグサっときて、しばらく私はフリーズする。そして、ゆっくりと長男をふりむき、こう告げるのだ。
「オホホ。そろそろあなたも、自分の勉強部屋がほしいんじゃない? いいのよ、お部屋分けたって。その方が、やっぱり落ち着くのかしら?」
 この頃、それを真剣に考え始めている、意気地のない母なのである。

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私のファッション [エッセイ・うらぴょん通信]

<これは昔書いたエッセイの再掲です>

ゴールデンウイーク。
夏のような日ざしが降り注ぎ始めた。
我が家のマンションの室内温度も急上昇。
おいおい、26度もあるぞ。
こうなったら、どんなに面倒くさくてもやるしかありません。










衣服の入れ替え。

ああ、もし、うちのクローゼットがもっと広かったら、ぜーんぶつるしっぱなしにして収納できるのに。

ブチブチ文句をいいながら、押入のプラスチックケースを運び、クローゼットの洋服を引っ張り出し、作業を進める。

自分の服を取り出したり、しまったりしながら、ふと気がついた。
五月は、物書きどうしの集まりとか、お友だちとの集まりとか、色々あるぞ。










いったいおまえは、何を着ていくつもりだ。









しばし、首をひねって考える。







だがじつは、








まったく、








何も、










考えていなかった。



ああ、独身の頃なら、こんなことはなかった。
よそゆきの服を着る予定があるとなれば、服から、アクセサリーから、ヘアスタイルから、口紅やマニュキュアの色まで、ぜーんぶトータルコーディネイトしたものだ。

ところが、今や。









おしゃれする気力も、







おしゃれを楽しめるプローポーションも、








おしゃれする予算もない。

(これが一番の原因か)
















いかーん!










子供たちもやっと親ばなれしてきたのだ。

一人で外出する機会も増えた。

ここは、少し手持ちの洋服を調べて、どうしたら「まともに」装えるか、考え直そうではないか。

それでもって、

よそゆきの服を並べる。

20年前の服だって、まだ持っている。










なんて、物持ちのいい私。






でも、もう10年も着てないぞ。










ちょっとスカートを試してみよう。












こうして、家族に隠れてこっそり、独身のときのスカートを試着。









だが、









見事結果は、
















惨敗。








ウエストが、入りましぇん。






えーん、買ったときは、けっこう高級品で高かったのに。
これさえ入れば、ジャケットと合わせて、きちんとしたかっこうができるのに。

こうして、とりあえず二枚ほどの高級スカートは、「お直しの店持ち込み予定」となった。









次は、過去五年以内に買ったスーツ。

これなら、だいじょうぶだろう。

しかし、シミやら、黄ばみやらが、けっこう目立っている。

ちゃんとお手入れをしないからだい!

(だけど、息子二人が小さい頃は、自分の服のお手入れ、どこじゃなかった。部屋の障子の張り替え作業の方が、忙しくて)








こうして、処分する服は処分し、残った服を並べてみる。

普段着の服は、けっこうあるが、よそゆきは、ほんのちょっぴり。

ああ、せめてあともう一セットくらい、用意しておきたいものだ。

本当なら、スーツ、が望ましいところだが。

今の家計は、そんな状況ではない。

それで、「お出かけ用」になる、ブラウスとスカートの組み合わせをねらうことにした。

こうして、私は次の日。








予算きっちりのお金をお財布に入れ、出発した。








もちろん、一人で。







子どもなんかついてきたら、ゆっくり選ぶこともできない。







行き先は、








都心のデパートにしようかとも思ったが。









考え直してやめる。

もちろん、理由は










高そうだから。










それで、となりの駅北千住に向かった。

ここには、駅ビルがあり、ファッショナブルなお店が、たくさん入っているのだ。

いそいそと、到着。

洋服なんか見て回るのは、久しぶりだ。
やっぱり、デパートに比べると、ずいぶん安いお店がある。

だが、そういうお店はたいだい、
独身女性向け。
ずいぶんスリムなデザインである。

ここでの唯一の問題は、











ウエストが、入るかどうか。








ある一軒の店で、よさそうなブラウスがあったので、まずそれを試着する。
けっこう、ボディコンなデザインだったが。










ウエストも、オッケー







(ストレッチ素材バンザイ!)










すると、若い女性の店員さんが、すかさずこう勧めた。

「このブラウスに合うスカートはいかがですか」










いきなり、そう来たか。











私は、小声で、店員さんに自分のウエストサイズを伝える。

さすがプロの店員さんは、わけ知り顔にうなずいて、スカートの中から合いそうなやつを、探し出して来てくれた。









だが、サイズは、けっこうぎりぎり。








「お客さまなら、これくらいでだいじょうぶかと」

と、店員さんがいうので、とにかく










試着室に、ゴー!









だが、結果はまたもや。










惨敗








「す、すみません。あと、二センチ足りません」

試着室から顔だけ出して、そういうときの、まあ、恥ずかしさといったら!

ゴールデンウイークなので、店内は、若い女性でいっぱい、だったのである。

しかし、躊躇している暇はない。

なんとしても、着られるスカートをゲットして帰るぞ!

店員さんは、「おやまあ」という顔をして、
一サイズ大きいスカートを持ってきてくれる。

これなら、オッケー。

よかった、よかった。とにかく合うのがあって。

すると、店員さんは、またもや、他の物を勧める。







「このブラウスとスカートに合うベルトはいかがですか。ほら、あちらの店員が着ているような」







見れば、スリムで背の高い店員さんが、オーバーブラウスの上から、細いベルトを、少しルーズに締めている。それはそれで、すごくかっこいい。

よし、私も挑戦!












しかし、これも、









惨敗







やっぱり、ウエストがくびれていないと、ベルトをしても、なんだか暑苦しくなるだけだ。

「おっほっほ。ごめんなさい。やっぱり、プロポーションがよくないと、こういうのは、どうも……」

 と断ると、店員さんも、









うすうす気づいていたのか、









それ以上は、もう勧めなかった。









こうして、私は無事、ブラウスとスカートだけ買った。両方で、デパートなら、ブラウス一枚の値段。

だが、まだまだ私には次の使命が残されている。

あの、ウエストが入らなくなったスカートの数々。
直しに出すとしても、数センチ広げるのが限界だろう。
あともうちょっとダイエットもしないと、たぶん、もう着るのは、無理。





おしゃれのために、家計のために、ここは一つ、がんばるかあ。
どこまで続くか、私の夏のファッション大作戦。たぶん、三日坊主だけれどね
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気の話 [エッセイ・うらぴょん通信]

  若いとき、合気道を四年間修行した。
 学んで一番よかったと思うことは、「気」の原理である。
 東洋では昔から「気」の概念があった。日本語にも、「気」という漢字のつく言葉がとても多い。

 病気、陽気、天気、正気、殺気、活気、勇気、気が散る、気を配る、気を持たせる……。
 気とは、宇宙全体を覆うエネルギーのことだ。人間は、この気を体内に取り入れ、また吐き出して、エネルギーを得、生活している。

 具体的に「気」を感じるには、こうするとよい。人差し指を立て、こめかみにゆっくりと近づけていく。目をつぶっていても、何かぴりぴり感じませんか。これが、指から出る「気」である。

 「気」が最も出るのは、手と「目」。だから、誰かが遠くから視線を送っていると、背中でもこれを感じることができる。
 合気道では、この気の流れを応用し、向かってくる相手を投げ飛ばす。起源は、柔道と同じ武士の護身術「柔術」だ。
 昔の剣豪は、気配だけで相手を察知したというが、これは、「気」を感じる訓練を積んでいたのである。

 さて、武道についての説明はこの辺にして、年齢を経るにして合気道が役立ったのは、武術の技ではなく、気の健康法の方だ。
 「気」の循環がおかしくなると、体調も崩れる。気はうまく体内を流れていなければならない。

 最近西洋医学でも、心と体の関わり合いが密接であることが、やっと取りざたされるようになった。
 緊張したり、落ち込んだり、ストレスを感じたとき、体は固くなり、気の出し入れが滞る。これが長く続くと、「病気」となるのである。

 そんなこといったって、今の世の中、嫌なことだからけで、ストレスは溜まる一方。いったいどうしたらよいのか。

方法1 体をリラックスさせる。

 寝転がって上を向き、ゆっくり息を吐いたり吸ったり、を繰り返す。西洋医学の自立訓練法、と似ている。体の重心を下に感じ、「頭に血が昇らない」ようにする。頭がかあっとすると、身体のバランスが崩れ、様々な不調の原因となる。
 この呼吸をくりかえすと、だんだん体の先がぽかぽかしてくる。新陳代謝がよくなってくるのである。つまり、

 ダイエットにもよい。

 しだいにリラックスしてきて、必ず眠くなる。よく眠れない方は、試されてみるとよい。

 この呼吸法の他にも、入浴したり、疲れない程度に運動するのもよいと思う。散歩や温泉旅行も絶好。
 心がつらいときは、体も固くなっているので、ぜひほぐしてあげて欲しい。

方法2 元気の出る言葉を口にする。

 心と体は一体なので、いくら元気に体を動かそうとしても、頭で後ろ向きなことを考えていてはだめだ。
 「今日は絶不調」とか「どうせ私なんか童話の才能ないわ」などと、マイナスなことばかり考えると、心に反応して、気も出なくなってしまう。「元気がないね」というのは、こういった状態である。

 うそでもいいから、「絶好調だ!」「やればできるぞ!」と口にしたり、自分に言い聞かせてみることである。
 いやなことがあっても、何度も思い出すのをやめたり、気に病む癖を直すと、少しは元気が出る。

 カラオケで歌を歌うのもよい。

 大好きな歌を歌っていると、目が輝き、気が出てくる。
 「明日がある~」という歌が最近はやっているが、あの歌はもってこい。
 
 なあんだ。そんなことならやっている。という方も多いと思うが、本当に落ち込んだとき、人はこの「気を出す」やり方を忘れている。

 童話を書いているのも楽しいうちはいいが、うまくいかなかったり、落選したり、ボツになったり、批判されたり、つらいことも多い。
 そんなときにぜひ、この気の話を思い出してほしいと思う。

 私も、この気の修行を、心の支えに、マイナスなことはなるべく忘れて、毎日創作に励むようにしている。
 できれば、呼吸法も、あともう少しがんばって、ダイエットも成功させたいところである。
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子どもと読書 [エッセイ・うらぴょん通信]

<2002年に書いたエッセの再掲載です>

 小さい子への読み聞かせは、親が「読んでやる気力をふりおこせば」それで済む。
 だが問題は、子どもが自分一人で読み出すときだ。
 一年生でひらがなを習う。でも、一つ一つの字が読めるのと、長い本が読めるのでは、大ちがい。本を読み始めの子どもにとって、長いお話を読むことは「砂漠で遭難した人が、砂丘の向こうのオアシスにむかって何百キロも歩く」くらい大変なことなのである。
 絵本は読みやすい。楽しげな絵が、子供たちの興味をそそってくれる。 
 だが、少し絵の量の減った幼年向きの児童書はどうか。「かいけつゾロリ」や、「忍たま乱太郎」くらい絵が多ければいいが、それより絵が少ないと、子どもにはまだかなり抵抗があることと思う。

 その際、私が実行してみたのは、名づけて、「半分読み聞かせ」。
 ポイントは、子どもにはただの読み聞かせのふりをし、ぜったいに「半分読み聞かせ」だと悟られないことにある。
 子どもが、「この本むずかしいから、お母さん、読んで」といったら、
「ええ?自分で読みなさいよ。もう小学生でしょ。何のために学校行ってるのよ」
 などと怒らず、素直に読む。
 たとえば、桃太郎の話だとしよう。キジやサルをお供につけて、きびだんごを持って出発し、鬼ヶ島につき、鬼が姿を現し……
 さて、いよいよクライマックスシーン。
 そこで、親は突然、ゴホッ、ゴホッと咳こんだりする。
「ごめんなさい。○○ちゃん。お母さん、たくさん読み過ぎて、のどが痛くなっちゃった。悪いけれど、この先一人で読める?」
 話が盛り上がっているところを選ぶ。たとえば、主人公の勇者が、怪獣におそわれた。魔法使いが魔法をかけた。
 そこで、いきなり読むのをやめれば、子どもは、「えー?」と憤慨する。もし自分で字が読める段階になっていれば、
「いいよ。ぼく自分で読む」
 と、お母さんの手から本を奪いとり、いっしょうけんめい続きを読むにちがいない。本の途中まで読んでやっているので、残りはあとわずか。うまくすれば、最後まで読み終えることができるだろう。

 しかしこの際も、
「やだよ、ぼく読みたくない」
 といわれたら、素直にあきらめ、親が続きを読むこと。
「どうしてよっ! 読みなさいよ! お母さん疲れちゃったっていってるでしょ」
 と、喧嘩しても、事態は悪い方向に進むばかり。
 子どもの相手は、何事も忍耐である。

 この方法をくりかえすと、子供は、字の多い本を読むことにも、抵抗がなくなっていく。字ばかりならんでいても、「読んでいけば、きっとおもしろいことが書いてある」と期待するようになる。
 もちろん、この時期でも、おもしろそうな本は、図書館で親がいくつかピックアップして、「これ借りる?」とたずねたり、黙って借りてきて、リビングに並べておくことが大事である。

 だが鉄則はやはり「忍者の好きな子には忍者の本」「ロマンチックな話の好きな子にはロマンチックな本」。
 ましてや、子供がせっかく興味を持った本を、ゆめゆめ、
「そんなくだらない本、やめなさい! 中身がないわ! もっと道徳的なやつはないの? たとえば高橋うららの本みたいなやつ!」
 などといってはいけない。
 1年生が、性教育の本を手にしてしまってもそれでいい。
「へえ、本には、こんなすごいことが書いてあるんだ。本って、すごいなあ」
 と、目を丸くするだけの話である。親が気を使って説明する手間も省けるというものだ。
 自分で選び、自分で「ああ、おもしろかった」と喜んだり、「げっ、失敗したあ」と後悔したりする。
 子どもにはこうして、本を選ぶ力を身につけ、本好きになっていってほしいものである。

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いい天気 [エッセイ・うらぴょん通信]

<2002年に書いたエッセイの再掲載です>

先日、少し年上の障害者Nさんといっしょに、レストランに行く機会があった。このNさんは、ぱっと見ただけでは何とわかりにくい障害をお持ちの女性である。「いい天気」を読んでくださったことがご縁で、ときどきお話しするようになった。プライバシーに関わるので、あまり詳しい説明は、差し控えることにする。

 二人で入ったのは、ファミリーレストランである。平日で、お昼の十二時前なので、がらがらにすいていた。席に案内され、しばらくするとウエイトレスの人が注文をとりにくる。
 だが、Nさんが声に出して注文したとたん、ウエイトレスのおばさんの目が、変わった。少し言葉が聞き取りにくいだけである。それなのに、「何この人」というような目で、じろじろ眺めはじめた。いっしょにいる私のことも、急にぶしつけな目で見始める。
 やがて、Nさんは、楽しそうに大きな声でお話しをなさった。すると、今度はレストランに入ってきた若いお客たちが、こちらをふりむく。ちらちらながめて目配せしあっている。
 レジでお金を払って店を出るまで、ずっとこの有様であった。「ありがとうございました」と見送るウエイトレスのおばさんも、ずっとじろじろ見送っている。
 下の階に降りるために、エレベーターに乗った。十代のミニスカート女の子と乗り合わせた。その子は、下におりる間中、私たちを振り返って見つめている。
 ふつうエレベーターで知らない人同士が乗り合わせたら、視線をさけるのが普通だろう。だが、相手が普通とちがう、と分かったとたん、まるで自分が優位に立ったかのように勘違いし、上から下に見下ろすような目で眺めるのも平気になる。
 いったい日本は、これでも福祉国家を目指しているといえるのだろうか。
 暗澹たる気持ちになった。

 エレベーターをおりると、Nさんも、ため息をつかれた。
「ときどきこういう日があるの。今日みたいに暇な人が多いほど、じろじろ見る。なんとかしてほしいものだわ」
「今度お会いするときは、うちでいっしょにお昼を食べることにしましょうか」
「いえいえ、それじゃだめなの。そうやって障害者は家に引きこもりがちになってしまう。障害者が、自由に出歩けるような環境に変えていかなきゃおかしいの。今度高橋さんも、またどこかに書いてくださいね。障害者をぶしつけに見るのは、失礼だって」

 なぜ障害者をじっと見るのがいけないのか。相手の身になってみれば、すぐ分かることだ。
 もしあなたが、顔に大きなやけどを負い、その跡がくっきり赤く残ってしまったとする。道を歩いていて、あるいはレストランに入って、じろじろ見られたら、どんな気持ちがするか。
 アメリカやヨーロッパでは、そういうとき、ぜったいに視線を当てず気づかないふりをするのがマナーである。ところが、日本では、よってたかって眺める「田舎の文化」なのである。
 障害者が本当のバリアフリーを手にして暮らすためには、いくら車椅子用のスロープを作ったり、手すりをつけたりして、物理的な整備をしてもだめだ。
 周囲が暖かい視線で、とまでは望むまい、せめて自然な視線で見守ることが絶対に必要である。それが、障害者をとりまく環境が、本当に「いい天気」になるということだと思う。

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気がついたこと [エッセイ・うらぴょん通信]

<2002年に書いたエッセイの再掲載です>

「いい天気」を出版したとき、日本ダウン症ネットワークの名簿を元に、全国のダウン症児親の会に、献本させていただいた。

 今、うちのサイトとリンクしている「佐賀県障害児進路保障の会」の方とも、それがご縁でお知り合いになった。埼玉川口市にある団体「プラス1」さんは、あれから毎号会報を送ってくださっている。

 献本が終わってしばらくすると、複数の方から、同じようなお問い合わせのお電話をいただいた。
「あなたは、ダウン症の子供のことをお書きになったけれど、家族にいらっしゃるんでしょうね!」
 厳しい口調である。よく知りもしないのに障害者のことを書く作家、は許せないのかもしれない。
 私はお答えした。
「いえ、おりません。ただ、妹が耳が不自由で、前から障害者問題について思っていたことを書かせていただきました」
「あら、そうだったの。あなたのお家も……」
 そのとたん。その方の言葉が柔らかくなる。

 こういうことは、昔からよくある。
 障害者を家族に持った人は、「この人は家族に障害者がいて(あるいは福祉の活動をしていて)わかってくれる人」、「この人はその体験がないからわかってくれない人」と、話す相手を知らず知らずのうちに、色分けして考えてはいないだろうか。相手がそうだと分かったとたん、急に昔からの知り合いだったかのように、うち解けて話し出す。

 その証拠として、「いい天気」を配ったとたん、知り合いの思いがけない人が、「じつは、うちにも障害者の家族がいて」と、こっそりうち明けてくださった。
 その数は、驚くほど多かった。そうと知るまでは、みんな私のことを、「無関係な人」だと思って、障害者に関する話題を口に出さずにいたのである。他の話題なら、山のようにおしゃべりしてきたのに!

 確かに障害者がいる家族どうしなら、色々話も合うだろうし、相談にものってもらいやすい。遠慮がないから楽だ。
 だからといって、障害者の問題は、障害者の家族だけが肩寄せ合って集まって、抱えていく問題であろうか。抱えていける問題であろうか。

 これには、日本の文化の、歴史的背景もあると私は感じている。
 昔の障害者は各「家」だけで生活し、家の外にはなかなか出してもらえなかった。障害者に関わる問題は「家」の責任だった。(その閉鎖性が、その後、障害者が養護学校や障害者施設だけで生活する閉鎖性の問題、へとつながっている)

 ところが、ヨーロッパやアメリカでは、キリスト教の考え方「汝の隣人を愛せよ」だから、少なくとも近代化以降、障害者の手助けをするのは美徳であり、当たり前となった。たとえ家族にいなくても、理解するように務めなければならないし、介助も積極的に申し出る。
 家によって、「この家の人はわかってくれる」「ここはわかってくれない」ということは、ありえない。もしわかってくれない家がいるとなれば、地域や教会から攻撃されることになってしまう。

 勿論、これは宗教の問題ではなく、日頃からの「心がけ」だけの問題だ。欧米の取り組みが当たり前、という風潮が世界に広がれば、それで何の問題もない。

 先日、「いい天気を読んでいたので、自分の親が倒れて車椅子になったとき、平静に受け止められた」という方がいらした。
 誰もが、無関係ではいられない。今はただ偶然に、家族や自分が健常なだけかもしれない。

 障害者を家族に持った者も、遠慮せず、積極的に社会に働きかけていく必要がある。すべての人に、障害者問題の実像をわかってもらう必要がある。この活動は、すでに多くの方がなさっているが、まだまだ遠慮している方が多いということだ。

 障害者が家族にいようといまいと、色分けせずに話し合える日が来なければならない。
 どんな人どうしても、さりげない日常会話で、相談しあえる日が来なければならない。

 この働きかけを怠って、社会が二つに色分けされたままだと、いつまでたっても社会全体の理解が進まない。そして、いざ障害者が社会に出ていこうとするとき、大きな障壁が立ちはだかるのではないかと思う。

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私の時間

*これは、2002年末に書いたうらぴょん通信の再掲載です。

*********

あと少しで、2002年も終わろうとしている。
 年をとると、月日の経つのが早くなるというが、まさにこの一年は、うさぎのジャンプのような駆け足だった。
 振り返ってみれば、一月に入ってすぐ、作詞のお話をいただいて、4月には、合唱組曲を初演させていただいた。
 他にも、色々事件はあったし、波風の多い年ではあったが、これで充実していないといったら、バチが当たるだろう。

 主婦をしながら、物を書くというのは、時間があるようでいてなく、毎日がジレンマの繰り返してある。
 会社に勤めていたころは、時間の配分はわかりやすかった。
 ファイロファクスという分厚い手帳に、仕事の予定や、やらなくてはならないことを書き出し、休日は出かける予定くらいを書いておけば、それで毎日の時間管理になった。
 しかしずっと家にいるというのも、時間管理がしやすいようでいて、かえって細かい用事がいつ入ってくるかわからず、難しい。

 子育ての真っ最中のころ、ただただ子供を相手にすぎていく毎日が情けなくて、次男が幼稚園の年少に入ったのを機会に、あるノートをつけ始めた。
 別に名前はないが、年度ごとに1冊の、B5のバインダーノート。
 ノートの最初の方には、公募に熱心だったこともあって、公募ガイドから転記した、童話の公募の一覧を表にして書いた。
 公募タイトルや、枚数、グレードの規定、締め切り日を左の方に書く。
 そして表の右には、実際自分が書いた題名や枚数、公募結果を書く。(賞金額ゲット額は赤字で書いたりして励みにした)。
 そして、この公募のページの後ろには、今後書きたい童話の内容や、構想を、メモにして書く。

 このノートのメインページは、毎日のスケジュール表。
 普通とちがうところは、「予定」ではなく、実際「何をやったか」毎日書き込むところにある。
 日記といってもいいくらいだが、日記とちがうのは、「どんなことを感じたか」のではなく、やったことだけ箇条書きにすることだ。めんどくさがりやの私は、日記はいつも三日坊主。毎日のスケジュールメモなら、何日かまとめて書くこともできるので、楽ちんである。

 ノート1ページで、一週間。
 能率手帳のように、上から日月火……、と7列自分で線を引く。
 各曜日の覧には、下に小さく時間の目盛りを、大ざっぱに3時間ごとくらいに入れる。朝4時から午後9時まで。
 そして、一日終わったら、さて今日は何をしたのか、時間軸の目盛りの上に、「××20枚」(創作のタイトルと枚数)とか、「××推敲」とか、「うら通」(を書く)とか、「HP」更新、とか、「PTA」という風に短く書き込む。

 一番最初にのノートを書いたころ、子供が幼稚園と小学1年で、ほとんど創作の時間はとれなかった。
 最初1週間、細かく「洗濯」とか「幼稚園送り」とか「子供病院」とか、全部書いたら、書いた自分であまりの忙しさに驚いたものだ。「これじゃ疲れるわけだ」としみじみ思った。

 そのうち、家事は毎日同じなので省き、大事なことだけメモするようになった。こうすると、自分ががんばっていたか、なまけていたか、一目瞭然。
 創作関係だけではない。子供の友だちが来たときは、来てくれた子の名前を書いておく。そうすると「この頃からあの子と仲良くなったんだ」と、すぐ調べられる。
 大事な電話が来た日や、原稿を送った日付、ゲラをチェックした日、なども覚え書き程度に書いておく。
 週に何回運動したかも明かになる。
 このノートがあると、一年前、二年前と今の生活がどういう風に変わってきたかも一目で分かる。

 最近は、なんとか創作の時間も増えたが、反対に、体力が落ちてきて、あまりがんばりすぎて疲れると次の日書けない、という若いころにはない問題も起こってきた。
 今や、体調管理をしながらいかにコンスタントに書くか、というペース配分が、このスケジュール表の主な役目にとってかわりつつある。
 
 これからも、体調管理しながら、なるべく充実した毎日になるよう、日々心がけていきたい。
 2003年も、がんばります!
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SO WHAT? [エッセイ・うらぴょん通信]

みなさんは、テレビ番組を選ぶとき、どういう基準でチャンネルを選んでいるだろう。大きな事件や地震が起これば、ニュースを見るし、台風が来れば天気予報、好きなタレントが出ていればそのドラマ旅行に出たいけれど暇がないときは旅番組……。番組を見るときは、何かしら小さな理由があるし、見るからには、「それなりの要求」があると思う。

 とくに大事な情報を伝えてくれる番組でなくても、「とってもおいしそう」ならグルメ番組も選ぶだろうし、好みの番組がなくても、「つけているだけで楽しい」から、お笑い番組を見ていたりする。

 しかし、そこで大事なことは、たとえば報道番組なら、「早く詳しくわかりやすく」なくてはならないし、お笑い番組なら、「視聴者を何度も笑わせる」くらいちゃんとおもしろくなくてはならないし、グルメ番組なら、必ず「おいしそう」ではなくてはならない、ということだ。
 そうでないと、途中で投げ出してすぐにチャンネルを変えてしまうだろう。
 選ばれつづけるには、視聴者の要求に応える「番組の魅力」が何かしら存在しなくてはなるまい。

 英語に、「SO WHAT?」(だからどうしたの?) という言葉があるけれど、誰かに物を提供するとき、大事なことは、「SO WHAT?」と言われないようにすることではないだろうか。

 たとえば、企業が新商品を開発して販売する場合、消費者はどんな基準を持って、商品を選ぶだろう。

 たとえば、わかりやすく、「歯ブラシ」を例に挙げる。
 まず消費者は、価格を見るだろう。それから、持ちやすいか、動かしやすいか。デザインはどうか。あれこれ調べる。高い電動歯ブラシでも、「これさえあれば歯周病が必ず治る」と言われれば、買うこともあるだろう。

 大事なのは、安いなら安い。役立つなら、しっかり役立つ。デザインがいいなら他の物よりだんぜんステキ。と、その商品の魅力がはっきりしていること。
 中途半端に安くてもすぐダメになりそうだったり、デザインも変わっているが別にかっこよくない、なんていうのが、一番売れない。消費者が、「SO WHAT?」(だからどうしたの?)とそっぽを向いてしまうからだ。

 というわけで、この法則はもしかしたら、私の書いている児童文学にもあてはまるのではないか、と最近思い始めている。
 「SO WHAT?」(だからどうしたの?)と、言われないこと。作品の魅力が最低一つでも、はっきりとしていること。これは「テーマが立派」とか、そういう単純な問題ではない。

 おもしろいエンターテイメントなら、徹底的におもしろくあってほしいし、ファンタジーなら、別の不思議な世界まで魔法をかけられたかのようにスムースに連れていってほしい。子どもの心を描いたものなら、自分がその子になりきって泣いたり笑ったりしたいし、幼年向きの作品なら、小さい子たちが、目を輝かせて引き込まれる内容でなくてはならない。
 中には、一言では言い表せないけれど、なんともいえない魅力のある作品もあって、それはそれで、きちんとした存在価値がある。

 中途半端は一番いけない。何か最低一つはキラリと光る特徴がなくてはなるまい。
 そうでないと、子供も大人も、読んでいる途中で「SO WHAT?」と投げ出してしまう。

 もちろんあくまでこれは、その作品が作品として成り立つかどうかの、必要最低限の条件であって、芸術論うんぬんとか、児童文学はどうあるべきか、という問題は、またここから先の奥深い話である。

 ただせめて、「SO WHAT?」と言われない程度の作品は書きたいと思っている。
 まだまだこのエッセイでさえ、ひょっとしたら「SO WHAT?」と言われかねない自分の文章力ではあるけれど。

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優先順位 [エッセイ・うらぴょん通信]

若いころ読んだ三浦綾子さんのエッセイに、確かこんな言葉が書かれていた。

 人間はしばしば、2番目に大切なもののために、1番大切なものを失う、と。

 私はそれ以来、この言葉の重さがずっと気にかかっている。

 このサイトをご覧になっている方なら、一番わかりやすい例は、仕事をするためにパソコンに向かったのに、サイトめぐりばかりしてしまって、ちっともはかどらない、ということだろう。
 ちょっとお友だちのサイトを見るつもりが、映画紹介のサイトに行ってしまい、そこから、健康法のサイト、占いのサイトへ……、とどこまでも行ってしまう。
 本当に困ったものだ。

 他にも例はいくらでもある。
 ボランティア活動にのめりこみすぎて、本業の方がおろそかになってしまった人。
 家族のためだと仕事に夢中になって、妻に見はなされ、家庭を失うことになったサラリーマン
 子供の将来を思い、教育熱心になったのはいいが、けっきょく反抗されて嫌われる母親。
 収入のいい仕事ばかりに飛びついて、本当に自分のやりたいことができないフリーワーカー。
 
 書いているだけで、頭が痛くなってくる。
 2番目に大事なことに夢中になって、1番大切なことをないがしろにする。世の中、どこにでも、こういう例はころがっている、自分にも耳の痛いことばかり。
 
 大事なのは、自分の中で、きちんと優先順位を決めることだと思う。
 
 生命保険会社の人事課にいたとき、社員教育担当で、こういうセミナーがあった。
 MBO(Management by objectives)といい、目標をかかげて仕事の計画を立てていくというものである。
 これは、会社の仕事だけではなく、人の生き方でも同じだそうだ。

 まず自分の人生の最大の目標を設定する。
 それに沿って、具体的に何をしたいか、中くらいの目標をいくつか作る。
 さらにそれを細かい課題に分け、日々実行していくというものである。

 ただ、実状に合わせ、その目標は、数ヶ月、数年単位で見直しが必要になる。
 たとえば主婦であれば、家族の都合もあるから、自分の目標といっても、うまくいかないことばかり。
 でも、だからこそ、優先順位を決めて行動することも大切なのだ。
 周囲に振り回されてばかりいると、自分がやりたいことがどうしても後回しになり、ストレスはたまる一方だ。いらいらして、あげくの果てに子どもにやつ当たりしたりする。
 どうしても、これだけはやりたい、ということがあれば、何がなんでも暇を見つけて、短時間でもやっておかなくてはなるまい。
 
 私もなるべく早朝に童話を一ページでも書くように心がけている。家族が寝ているすきに仕事をしておけば、その後どんな用事が入ってこようと、子供が熱を出して学校を休もうと、いらいらせずに対応できる。少なくとも、今日一日の大事な課題は、ほんの少しでもやったのだから。
 
 こんなことをいうと、私の一番の目標は、児童文学の創作のように思われるかもしれないが、そうではない。
 あくまで一番大切なのは、家族であることに変わりはない。
 だから、もし家族が大きな病気をしたり、親が倒れたりすれば、創作が滞ることもあると思う。それはそれで、私の中の優先順位なのである。

 ただし、あんまり目標目標といっていると、まちがえればワーカーホリックになり、遊びや、ゆるみ、がなくなり、人生がつまらないものになってしまう。
 たまには、すべてをやめて休んだり、遊んだり、旅に出たり、計画なんか忘れてみるのもいいものだ。もちろん、忘れすぎても、いけないのだけれど。

 優先順位を考えながらも、ゆったり生きる。
 こういう境地に、いつか私もたどりつきたい。
 まだまだ今は、一生懸命やってみたり、目標を忘れて遊んだり、ムラの多い生活で、反省ばかりの毎日である。
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